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福井県唯一の国宝のある幽谷
小浜市内の市街地から南東の山々が連なる方へと進んでいくと松永地区と呼ばれる長閑な田園風景が見えてきます。途中「ひとやすみ」と書かれた子どもの銅像が置かれており、サイクリングやウォーキングにも通いゆく人がいることを思わせます。
福井県の建造物で唯一の国宝がある「明通寺(みょうつうじ)」は、この松永地区の奥にあたる幽谷と呼ぶにふさわしい深い山間に建っています。明通寺は、大同元年(806年)の平安時代初期に征夷大将軍である坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東北地方へ蝦夷(えみし)と戦うために遠征した際に、長年多くの蝦夷たちの浮かばれない魂を弔いたいと願って創建されたと伝えられています。
駐車場広場から松永川を跨ぐ朱色の橋を渡り、山門に向かって急な階段を一段一段上っていくと、まず出迎えてくれるのは190cmと迫力のある阿吽の金剛力士像です。朱の彩色、血管浮き出た筋肉は隆々、玉眼のギョロリとした目など表現は鎌倉時代ともいわれ、小浜市内でも最も古いものとされています。
さらに進んでいくと奥の方に三重塔と本堂が少しずつ見えてきます。明通寺は、かつて坂上田村麻呂の枕元に老居士が立ち、命ずるままに棡の木を切って彫り出したものが御本尊の薬師如来、降三世明王、深沙大将の3体と伝えられており、境内には山号にもなっている棡(ゆずりは)の大木が植わっています。 -
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平穏と憤怒の表情に魅せられて
三重塔と本堂の存在感は、奈良の東大寺や法隆寺に似たものを感じます。異なるのは、木々の葉ずれの音を聞きながら、沢蟹や蛙が石畳の上を歩くさまを眺められること。階段を上り切ると、涼やかで清らかな空気を感じられるのが不思議です。
現在の本堂は、正嘉2年(1258年)に再建されたもので、入母屋造りの檜皮葺。三重塔は文永7年(1270年)に建立されたもので檜皮葺、内部には釈迦三尊像と阿弥陀三尊像を祀り、極彩色の仏教画が描かれています。
まずは本堂の中へ入ってみましょう。頭を下げ手を合わせ、御住職の説明を伺った後、ぐるりと内陣を見渡してみます。正面真ん中に安置された薬師如来坐像は平安時代後期の作とされ、深い衣紋と慈悲深い手のひら、そして恍惚とした半眼をじっと眺めていると、こちらの意識が吸い込まれそうです。
薬師如来の左手には、一般的な寺院ではあまり見られないお顔が。その名も深沙大将(じんじゃたいしょう)。名前から「西遊記」を思い出した人もあるかもしれなませんが、河童の姿をした沙悟浄(さごじょう)がそれに当たります。深沙大将の像を見てみると、額に髑髏、腰に童子の顔、左手に蛇、右手に三叉を掴んだ特徴的な姿をしています。
さらに右手には激しい憤怒の形相をした降三世明王の立像が。四面八臀(四つの顔と八本の腕)を持ち、正面の顔は三眼、降三世印を結ぶ様は、圧倒的で息を呑んでしまうほど。さらに足の下には大自在天とその妃を踏んでいるそのリアルさには、ついギョッとしてしまいます。 -
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振り返って見渡す松永の里
本堂の仏像をひと通り参拝したら、もう一度外へ出て、三重塔をつぶさに見てみてほしい。高さは約22m、屋根上に立つ相輪の高さは約7mと圧巻です。上へ行くに従って寸法を減らすことによって、バランスを保った美しさを創り出しており、眺めているだけで心の平穏を取り戻すようです。
階段を降りる時に気づくのは、山々に囲まれた松永地区の里の様子です。当時はどのような景色だったのでしょうか。やはりこのように穏やかな山里で、静かな風が吹く時もあれば、激しい雨が降る時もあったのでしょう。かつてこの階段を上ってきた人々はどのような思いでここで手を合わせたのか、それに想いを馳せてみてください。 -
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