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神様のいる多田ヶ岳に向かって
穏やかな小浜湾の波音を背にして、南東の方角へ。市街地を抜け、曲がりくねりながら流れる多田川に添っていくと、前方に折り重なる山々が見えてきます。「多田ヶ岳(ただがたけ)」は千三百年というはるか昔、山そのものが神として崇められていた頃から多くの人々がこの山に登り、霊験あらたかな力を求めました。
多田ヶ岳の玄関口に建つ「多田寺(ただじ)」は、奈良時代(8世紀)の創建とされる由緒ある寺院です。寺院前の朱色に塗られた小さな橋の下には清らかなせせらぎが流れ、川魚や蛙、蜻蛉が住まい、山門をくぐる前の静かなひとときを感じさせてくれます。 -
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眼病祈願に多田のお薬師さん
多田寺は、孝謙天皇(こうけんてんのう)が眼病を患った際に勅願によって勝行上人(しょうぎょうしょうにん)が開基したお寺で、多田ヶ岳に百日篭って法力を得て、それを治癒したと伝えられています。以来、多田寺は「多田のお薬師さん」と親しまれ、特に眼病治癒祈願に参拝者が多く訪れています。
山門を抜けて階段を上がっていくと、白木の緻密に組まれた本堂が見えてきます。現在の本堂は、文化4年(1807年)の江戸時代に再興されたもので、当時は金堂と呼ばれていました。一度手を合わせて頭を下げた後、靴を脱いで階段を上り、本堂の柱に触れてみると、すべすべとした木の感触から当時の大工さんたちの丁寧な仕事ぶりを感じることができます。見上げると、枡組と呼ばれる互い違いに組まれた柱頭の部分が整然と並ぶ様子も見応えがあります。 -
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十を超える古き安らかな仏像たち
建物をよく観察したら、ぐるりと右手へ廻り、いよいよ本堂の中へ。
入った瞬間、なんとも賑やかなオーケストラのステージのような須弥壇が出迎えてくれます。まず、驚くのが、仏像たちの数。黒を基調とした躯体を金色の装飾に縁取った豪華な厨子の正面には、御本尊の薬師如来。その左手には日光菩薩、右手には月光菩薩とどれも立像でそれぞれ奥まったところに佇んでいます。
その脇を固めるのは、左右に二体ずつに分かれて配置されている四天王像。左手に広目天、増長天、右手に持国天、多聞天が険しい…というより丸々としたお顔の少しコミカルな表情で御本尊をお守りしています。
さらに須弥壇の左右の壁に目線を移すと、これまた左右に六体ずつに分かれて立つ色彩も鮮やかな十二神将が。それはまるで豪華な舞台のように幕が掲げられ、今にも動き出しそう
な様子でこちらを楽しませてくれます。そして、その舞台の下には一匹ずつ描かれた白獅子が。黒髪を靡かせる凛とした表情は、狩野派の影響を受けるものとも言われています。 -
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内陣の中へ一歩踏み込んで
さて、もう一度正面の御本尊に目を向けてみましょう。
本堂に入って始めに参拝のために座る畳の間は「外陣(げじん)」、そこからもう一歩「内陣」と呼ばれる普段は御住職しか立ち入ることができない場所に踏み込んでみましょう。小浜の寺院のほとんどは、この内陣に入っても良い場合が多く、せっかくなので御住職に一言声をかけて、御本尊に近づいてみてほしいのです。
真ん中の薬師如来。2mを超える一木造りの大柄なお薬師さんは、すっきりとしたお顔立ちにすっと通った鼻筋、そして身体を纏う衣の「衣紋(えもん)」の曲線美に見惚れます。少しずつふくよかさを増す平安時代前期の作で、薬壺は持っておらず、右手を上に左手を下にして印を結んでいます。
日光菩薩、月光菩薩は、薬師如来に比べると少し古風な面持ちがするのは、奈良時代の作といわれるから。日光菩薩は十一面観音を頭に掲げて右手を、月光菩薩は左手を長く下に向かって伸ばしています。これは「正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましっそう)」と呼ばれ、一人でも多くの人を救いたいという気持ちの表れとして仏像にはよく見られるものです。
また、四天王たちを間近に捉えると、鎧の形や衣装、踏んづけている鬼の表情までつぶさに見ることができ、彼らの赤く縁取られた眼から迫力を感じることでしょう。 -
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仏様を守ってきた多田村の人々
多田寺には、須弥壇に寄せられた仏像の他にも、三体の阿弥陀如来坐像や十一面観音菩薩などが祀られ、どれも平安時代後期のとても古い仏像です。これらは元々別の寺の本尊であり、廃仏毀釈の流れによって仏像が廃棄されないように多田村の人々によって守られてきたと伝えられています。
多田寺に限らず、廃仏毀釈から逃れるために住民の手によって守られてきた仏像の多い小浜。戦によって攻められることがなかった土地ならではの優しい信仰が根付いているように感じます。 -
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